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三毛別羆事件をわかりやすくご紹介します

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今から100年以上前、北海道でヒグマの襲撃によって、7名が死亡、3名が重傷を負う事件があったのはご存知でしょうか?

それは、日本史上最大の獣害事件でした。

今回は、三毛別羆事件についてご紹介させていただきます。

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三毛別羆事件

ヒグマ

三毛別羆事件は、北海道苫前郡苫前村三毛別(現在:苫前町古丹別三渓)六線沢で発生した、日本史上最大の獣害事件です。

三毛別羆事件について、時空列にまとめました。

 

11月

11月初旬のある夜明け前、開拓村の池田家に巨大なヒグマが現れました。

この時の被害は、軒先に干してあったトウモロコシだけでしたが、残していった足跡が非常に大きなものだったため、池田家の主人富蔵は警戒します。

 

11月中旬から下旬にかけて、再びヒグマが現れたため富蔵は二人のマタギ(猟師)を呼び、三人で鉄砲を撃ちかけるも傷を負わせただけで逃げられてしまいます。

そして、マタギの一人が、あのヒグマは「穴持たず」だと言います。

穴持たずとは、冬眠を逃した個体で、非常に凶暴なことが多いそうです。

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12月9日

最初の被害は三毛別川上流にある太田家で起きました。

その日、男たちは仕事で朝から家を留守にしており、家にいたのは当主三郎の内縁の妻マユ(34歳)と、太田家に預けられていた蓮見幹雄(6歳)でした。

昼になり、太田家に寄宿していた長松要吉(59歳)が昼飯を食べに家に戻ると、土間の囲炉裏端で幹雄がポツンと座っています。

声をかけても反応がないので、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込むと、幹雄はすでに死亡していたのです。

喉を何か鋭利なもので抉られ、頭部には親指大の穴があったそうです。

要吉は姿が見えないマユを探し名を呼んだが何の応答もなく、恐怖に震えながらも皆に知らせるべく家を飛び出しました。

 

そして、要吉の知らせを聞き、村の男達が太田家に駆け付けます。

調べると、どうやらこの事件はヒグマによるものらしく、行方不明のマユはヒグマに連れ去られたようです。

現場には手形の付いた血痕が残ってあり、マユが必死に抵抗したことを生々しく物語っていました。

 

この死亡事件の報に村は大騒動となりました。

村の男達は、太田家から500m程下流にある明景安太郎(40歳)の家に集まり、今後のことを話し合いました。

現代のように、電話などの通信設備があるわけではありません。

役場や警察、幹雄の実家に知らせること、ヒグマの討伐とマユの捜索、が必要だということになりましたが、この日はもう日も暮れかけてきているため翌日以降となります。

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12月10日

このことを町に伝える使者として、斉藤石五郎(42歳)が行くこととなりました。

斉藤石五郎は妊娠中の妻タケ(34歳)、三男・巌(6歳)、四男・春義(3歳)の家族3人を明景家に避難させ村を出発しました。

 

残る村の男達は、約30人の捜索隊を結成し、ヒグマの討伐とマユを捜索するため山に入ります。

すると、山へ入ってすぐにヒグマと遭遇します。

あわてて5人が鉄砲を撃ちかけようとしますが、手入れができておらず発砲できたのは1人だけでした。

襲い掛かるヒグマに捜索隊はバラバラになってしまいますが、ヒグマもすぐに逃走したためこの時は被害は出ませんでした。

その後、捜索隊が付近を探してみると、トドマツの根元の雪の下に埋められているマユの遺体が発見されました。

マユの遺体は、すでに大部分を食べられており、膝下の脚と頭蓋の一部しか残されていませんでした。

夜になって幹雄の両親が到着し、太田家では幹雄とマユの通夜が行われました。

村人たちはヒグマを恐れていたため、通夜には9人しか来なかったそうです。

午後8時半ごろ、突然ヒグマが太田家の壁を破って入ってきました。

ヒグマは自分の獲物(幹雄とマユの遺体)を取り返しにやって来たのです。

急いで梁の上や便所に逃げ隠れるなか、一人の男が銃を撃ちかけたためヒグマは逃げ出しました。

犠牲者は出ませんでしたが、壁を壊されてしまった太田家にいるわけにもいかないので、明景家に避難しようということになりました。

しかし、この時すでにヒグマは明景家に向かっていたのです…。

 

このころ、明景家には明景家の家族6人と斎藤家の家族3人と長松要吉の10人がいました。

明景家の当主安太郎は所用で村を離れていました。

また、近隣の護衛の男たちは先ほどの太田家の騒ぎを聞き太田家へと向かっており、明景家は男1人に女2人と子供のみという状態でした。

ヒグマ

 

午後8時50分頃、安太郎の妻・ヤヨが夜食を作っていると、突然ヒグマが窓を破って侵入してきました。

囲炉裏の鍋がひっくり返されたため火が消え、室内は真っ暗闇となります。

ヒグマは、ヤヨとヤヨが背負っていた梅吉(1歳)に嚙みついた後、逃げようとした長松要吉にも襲い掛かります。

長松要吉の腰から太ももの肉をかじりとったあと、方向を変え、女子供たちが取り残されている居間へと戻ります。

そして、明景家の三男・金蔵(3歳)、斎藤家の四男・春義(3歳)の二人を撲殺、斉藤家の三男・巌(6歳)にも噛みつきます。

この時、野菜置き場に隠れていたタケは、思わず顔を出してしまいヒグマに見つかり、居間に引きずり出されます。

妊娠中だったタケは、「腹破らんでくれ!のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしましたが、上半身から食われ始め死亡します。

 

明景家に向かっていた一行は、絶叫と激しい物音を耳にします。

途中、逃げ出してきたヤヨと長松要吉を保護し何が起こったのかを知ります。

50人ほどの男たちが明景家を囲みますが、中は真っ暗で様子がわからず尻込みしています。

しかし、この最中も家の中からはタケと思われるうめき声と、ヒグマがタケを食べている咀嚼音が聞こえてきます…。

裏手に回った1人が空砲を撃ち、ヒグマを追い出すことには成功しますが、ここでも銃の不発などがあり仕留めることはできずにヒグマは再び逃走します。

明景家に入った者たちが見た光景はまさに地獄絵図、血の海の中無残に食い殺された、金蔵、春義、タケの遺体と重傷を負った巌の姿でした。

巌は左大腿部から臀部は食べられ骨だけになっており、「おっ母ぁ、クマとってけれ」とうわ言のように繰り返し20分後に死亡しました。

 

この日の夜のうちに、捜索隊の男達だけを残して六線沢のすべての住民が、三毛別分教場と辻橋蔵宅に避難することになりました。

この二日間で胎児を含める7人の命が奪われ、3人が重傷を負いました。

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12月11日

三毛別地区区長の大川与三吉と、村の長老や有志、駐在所の巡査、御料局分担区員、分教場教師らで話し合いが行われ、ヒグマ討伐の応援を警察や行政に頼ることが決まりました。

 

また、この日の昼ごろ、使者に出ていた斉藤石五郎が戻ります。

石五郎は、妻子に起きた不幸を聞き、雪上に激しく泣き崩れたそうです。

 

12月12日

知らせを受け、北海道庁警察部保安課は討伐隊を組織します。

近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を要請し、多くの人が三毛別に集まりました。

捜索が開始されましたが思うようにヒグマを発見することができず、犠牲者の遺体を明景家に放置しヒグマをおびき寄せるという苦肉の策がとられました。

しかし、ヒグマは家の前で引き返してしまいこの策は失敗となりました。

 

12月13日

陸軍から30名の将校が討伐隊に加わるべく派遣されてきます。

 

その頃、ヒグマは避難して無人となった村の家々を荒らして、食べ物を探し回っていました。

昼間なのに家に堂々と入り込むなど、大胆な行動に出るようになったヒグマは警戒心が薄れてきていたようです。

そして、午後8時ごろ、討伐隊は三毛別川の対岸にヒグマを発見、鉄砲を撃ちかけ傷を負わせます。

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12月14日

朝になって、対岸を調べた結果ヒグマのものと思われる血痕と足跡が見つかります。

手負いになった今が好機と討伐隊を差し向けることとなりました。

 

その頃、討伐隊とは別に行動している男がいました。

男の名は、山本兵吉。鬼鹿村温根のマタギで、若い頃にサバサキ(小刀)一本でクマを倒したことから「宗谷のサバサキのあにぃ」との異名で呼ばれている腕利きでした。

兵吉は討伐隊とは別の道から山に入ると、頂上付近のミズナラの大木で体を休めている巨大なヒグマを発見します。

兵吉はヒグマに気づかれずに20メートルまで近づくと、銃を発砲、ヒグマの心臓近くを打ち抜きます。

しかし、ヒグマは立ち上がり兵吉をにらみつけます。

兵吉は2発目を発射、その弾はヒグマの頭を打ち抜きました。

12月14日午前10時、7人を殺害した巨大ヒグマは山本兵吉によってついに討ち取られました。

 

ヒグマは、推定7、8歳の雄で大きさが約2.7メートル、体重が340kgほどの巨大な個体でした。

頭が異様に大きく、金毛が混ざった黒褐色で、胸に袈裟懸けといわれる弓状の白斑が通っていたそうです。

 

ヒグマの死体を山から降ろし始めたところ、晴天だった天気が急に悪化し、激しい吹雪となり危うく討伐隊が遭難するところだったそうです。

地元の言い伝えによれば、クマを殺すと天気が荒れるといい、これを「熊風」と呼びました。

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その後

解剖の結果、このヒグマはこの村以外にも各地で人を襲い食べていたヒグマだったことが分かります。

犠牲者の供養のため、ヒグマの肉は煮て食べられましたが、硬くて筋が多く味は悪かったそうです。

皮は板に貼り付け天日干しにされた後、肝などとともに売却され、お金は事件の被害者に贈られました。

 

ヒグマを仕留めた山本兵吉は、この事件の後もマタギとして活動し続け、1950年に92歳で亡くなります。

生涯で仕留めたヒグマの数は300頭を超えると言われています。

 

事件が終わっても、ヒグマが住民に与えた恐怖は消え去ることはなく、1人また1人と村から離れ六線沢は無人となりました。

三毛別羆事件復元現地

三毛別羆事件復元現地 出典:wikimedia

 

現在、事件が起きた六線沢には、町民の手によって当時の場面が再現された「三毛別羆事件復元現地」があります。

当時の生活を再現した家と、その家に襲いかかろうとする巨大なヒグマの像があります。

 

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